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太古の守りに満ちた聖域。 その清浄な空気に、一陣の腥い風の混在を感じ取り、御神薙は狼のような銀色の瞳を風上へと鋭く向けた。 ……眷属ではない。 今居るのは古代の守護の力が色濃く残るだけでなく、石で編んだ結界の中だ。言わば二重の結界によって守られているこの場所を、奴らがそう易々と見付けられる筈がない。 ……だが、確かに何か生物の気配がする。 全てを預けるようにして凭れ掛かり、穏やかな寝息を吐く暁人の躰を、御神薙は自分の肩からゆっくりと草上へと横たえた。 「…ぅん…」 冷たい地面が不満だったのか、暁人は一瞬小さな抗議の声を上げて、だが再びスヤスヤと寝入ってしまった。 それに内心ホッと安堵の息を吐きながら、御神薙は素早く立ち上がった。凝っと耳を澄ませ、周囲の気配を探る。 叢から漏れる微かな物音。風によるものとは明らかに違う、その葉擦れの音。 確かに複数の獣の気配がするが、向こうも様子を伺っているだけのようだ。殺気は感じられない。これほど清冽で濃度の高い大気が満ち満ちた場所にあって、攻撃的になる生物もそうはいない筈だ。 それでも御神薙は再び腰を下ろそうとはしなかった。結界の外とはいえ、奴らの気配が完全に消えるまで気は抜けない。 ――――――束の間の休息。 弟に付けられた傷の方は大分癒えた。結界の中に居る為だけではなく、修復が早い気がする。もしかして、暁人のおかげなのだろうか。彼の持つ不思議に暖かな気の力が、触れ合っている部分から自分の方に、どんどん流れ込んでくるように感じられてならなかった。 そっと傷口に触れた御神薙は、ほんの一時、自分への憎悪を剥き出しにした弟へと想いを馳せる。 嘉上とは今まで何度、刃を交えたか分からない。けれど、今度ほど激しいものは今までになかった気がする。 ………この少年の所為だろうか。 自分の足元で丸くなって眠る暁人を、御神薙は無表情に見下ろした。内側へ内側へと目を凝らしてみると、確かに抑圧されてはいるが、昔と寸分違わぬ魂の輝きが僅かながら見て取れる。 ――――――「彼」の生まれ変わり。 無防備にその身を月光に晒し、ただ静かに眠り続ける暁人を、御神薙は凝っと見つめた。 ………「彼」を失ってからの自分は、始祖を殺すという目的の為だけに生き続けることを強いられた、ただの殺戮機械だった。 どんな相手であっても憎くはないのだと、いつか「彼」は言った。憎しみは何も生まないのだと。弟を恨んではいけないとさえ言った。 だから、己もそう在りたいと思った。 けれど自分は聖人ではない。「彼」のようにはなれなかった。 憎かった。狂おしいほどに憎かった。 それは憎悪という言葉では表現しきれないほどの、まさに一片の光もない、ドロリとした感情の渦潮だった。 太陽のような「彼」の存在を貶めようとした、あの醜悪な存在。己の過去も未来も、その生の全てを奉げると誓った「彼」を、奪い去っていった悪の権化。 赤い月を見る度に、あの堕天使の禍禍しい双眸を思い出した。 幾度、咆哮したか分からない。 幾度、罪もない木々を薙ぎ払ったか分からない。 幾度、拳で地を殴りつけたか分からない。 戻らない人を想い、己の無力に打ちのめされては地に臥した。 この世の全てを呪った日々。 ただただ、早くこの苦しい生から逃れたかった。だがその願いが聞き届けられる筈がないことも知っていた。何より「彼」を救いたかった。 「彼」の言うように復讐を望まず、何時果てるともしれない時間を、一人置き去られて生きていく為に防衛本能がとった策は一つ。 感情の、抹殺。 一族の人間を抹殺するのも、ただの任務。 堕ちた天使を抹殺するのも、ただの使命。 時々まるで発作のように、己のあまりにも麻痺してしまった感覚に戦慄を覚えることもあったが、それも遠い昔のことだ。暁人に指摘されるまで思い出しもしなかった。 時の流れにさえ、漂白されない優しい想い。「彼」の想い出。それを時折、胸の中から取り出して暖を取る。 それだけが生への縁であり、慰めだった。 ――――――フウ、フウ…… 不意に聴覚が捕らえた複数の獣の荒い息遣いが、御神薙の物思いを否応無く中断させる。 不穏な空気。どうやら奴らは、此方を襲撃することにしたらしい。 パキリ、と小枝を踏む音が空気を震わせる。 此方に向かっていたその犬科特有の足音が、ある一定の線を超えるにあたって、御神薙の銀瞳に訝しげな色が刷かれた。 ………おかしい。 複数の足音は結界を物ともせず、じわじわと近付いてくる。 「…血の穢れか……?」 己ではない。 石と同じ原子を持つ御神薙の血で結界は穢れない。昼間、此処で何かあったのかもしれない。何者かの血の穢れによって出来た結界の小さな綻びから、奴らは御神薙の血の匂いに誘われてきたようだ。酷く飢え、興奮している様子だった。 御神薙は眉根を寄せた。己の迂闊さが悔やまれると同時、暁人の眠りを妨げようとする者の存在が酷く不愉快だった。 ゆっくりと掌を月光に翳し、瞬時に現れた銀色の剣の柄を握る。 月明かりに濃い影を落とす木々の方へと身構えると、やがて金色の瞳が複数、爛々と輝いて闇に浮かび上がった。 低い唸り声。 「…野犬の群か」 呟き、無用の長物かと剣を大気に消し去った御神薙は、しかし何も知らずに睡郷に遊ぶ暁人を見下ろし、躊躇った。 野犬など、ちょっと気を高めてみせれば尻尾を巻いて逃げていくだろうと思ったが、此処でそうすれば、暁人が驚いて目を覚ましてしまう。 次第に此方に近付いてくる獣の足音に向けて、御神薙は音も無く駆け出した。 野犬たちが一斉に警戒の大音声を放つ。 御神薙は小さく舌打ちした。 「何…? 御神薙?」 案の定、目を覚ましてしまった暁人が、背後で不安げな声を上げた。 振り向かず、野犬の群に向けて走りながら、御神薙は再び剣を具現させ、握る。 ―――――― ギャウ、ギャウウッ! 激しく吠え立てながら襲い掛かってきた一匹に、御神薙は容赦なく肘鉄を食らわせた。獣たちの興味を自分一人に引き付ける為でもあったが、暁人の眠りを妨げた者に対する、軽い報復のようなものでもあった。 ギャンッ、と短く叫んで、野犬が土に転がる。 群は一瞬怯んだものの、その行為は火に油を注ぐようなものだったらしい。更に激しく吠え立て、一斉に御神薙を襲った。 その鼻先を一蹴り、天空高く舞った御神薙は、幾つかの幹を蹴って結界の臨界地点まで走った。結界の外へ誘き出す目的だった。 だが御神薙の意図に反し、何故か野犬の興味の半分は、大木の下に呆然と立ち竦む暁人に向けられたままである。 ―――――― ウ ――、ウウ ―― ッ、ギャウッ!! 今にも暁人に飛び掛って行きそうな野犬の群に、御神薙は咄嗟に方向転換した。宙で剣を下向きに構え一匹に狙いを定める。 こうなっては致し方ない。 見せしめに一匹だけを殺すつもりだった。殺さないまでも確実に血を流すつもりだった。それが、飢え、群れた獣から身を守る、最も簡単且つ効果的な方法であることを彼は知っていたからだ。一々気を奪っていたのでは、怒気に火の点いた獣は止められない。 だが、今まさに犬の背に剣を突き立てようとしたその御神薙の腕を、咆哮に混じって必死の声が止めた。 「駄目っ、御神薙! そんなことしちゃ駄目…!」 叫びながら闇を蹴散らし、暁人が此方に走ってくる。野犬たちが一斉に暁人の方へと首を巡らせた。 「…! 来るなッ」 驚き、御神薙は暁人を助けようと一旦、地に膝を着いた後、すぐさま方向を変えて跳躍しようとした。その時、一匹の野犬が御神薙の靴先を噛んだ。 「!?」 丁度、跳躍し掛けていたところを牙に引っ掛けられて、御神薙はバランスを崩した。堪らず、地面に手を突く。治りきれていない傷がズキンと激しく疼いた。 「く…っ」 「御神薙!!」 「来るなッ!」 ここぞとばかりに、ワッと襲い来る野犬の群。唾液を引き、ガッと剥かれる牙。 「!」 御神薙の剣が月下に閃く。 「やめてッ!!」 だがしかし、悲鳴のような暁人の声が辺りに震撼と響いた途端、野犬たちはビクンと硬直して動きを止めた。 「御神薙っ」 戸惑うような野犬の群を掻き分けるようにして、暁人が御神薙の眼前に現れる。彼は迷うことなく、御神薙を守るように全身で覆い被さった。ギュッと強く抱き締める。 「やめて…、お願いだよ」 そして、自分たちを取り囲む野犬の群に向かって、毅然とした口調でそう懇願した。 畜生に向けて何を馬鹿なことをと内心思いながら、御神薙がその身を抱いて跳躍しようとするのを、暁人は優しく腕を振り払うことで拒絶した。更に、あろうことか一匹の野犬に手を伸ばす。先刻、御神薙が肘鉄を食らわした奴だった。 「何を…!」 「大丈夫」 蒼白になった御神薙に呟くように返して、暁人は戸惑いも顕な野犬の頭を優しく撫でた。 ―――――― キュ ――― ン…… 撫で続ける内、次第に野犬が甘えるような声で鳴き始める。その両眼からは、怒りの色が完全に消えていた。 御神薙は驚きのあまり、声も出なかった。確かに「彼」の転生者ならば可能なことなのかもしれない。けれど今、暁人の中でその力は未だ眠っている筈だった。 「ありがと、良い子だね…」 暁人は慈しむような眼差しを真っ直ぐに犬に向け、その頭や鼻先を撫で続けている。 ――――――フンフン…、フンフン…… やがて、うろうろと辺りを戸惑ったようにうろついては、鼻で土を掘り返したりしていた他の野犬たちが、一匹また一匹と、結界の外へ、そして闇深い木立の中へと静かに去っていく。最後、暁人に撫でられていた野犬も、暁人の掌を一度だけ舐めると、名残惜しげに時折振り向きながら、尻尾を振り振り闇へと消えた。 タッタッタッ、という軽い足音が完全に消え去るのを呆然と待ってから、御神薙はゆっくりと態勢を立てなおし、月光に跪いた。 「…お前は…」 安堵と賞賛が相半ばする。 言葉が続かず黙り込んだ御神薙を、暁人が月明かりを受けてゆっくりと振り返った。 「御神薙…」 暁人は御神薙の服に手を掛けた。その手が小刻みに震えている。 「良かった、御神薙が無事で…」 嘆息交じりのその声も、何処か泣きそうに震えていた。 御神薙は震える暁人の手を取り、握った。 「……無茶をする」 「僕、人は駄目だけど、動物には受けが良いから」 きっと大丈夫だと思って、と言って暁人は照れたように笑う。 その笑顔を眩しいものでも見るような眼差しで見つめた御神薙は、 「それは、畜生の方がお前の本質を見極める眼を持つからだろう」 一つ瞬きして呟いた。 「え…?」 「…立て。木の根もとへ戻る。彼処が一番、守りが強い」 御神薙に腕を取られ、立ち上がろうとした暁人は、しかしそのまま尻餅を着いた。 「どうした」 「腰が抜けたみたい…」 暁人は羞恥に真っ赤になって縮こまった。 「……全く、お前は……」 フッと笑って、御神薙は暁人を抱き上げた。 「い、良いよ。直ぐに立てるようになるから。御神薙、だって傷が…っ」 慌てて辞退しようとするも、御神薙は無言のまま暁人をもと居た木の下へと運ぶ。 そっと降ろされ、其処に落ちていた制服の上着を手渡されて、暁人は恐縮しながらも嬉しそうにそれを受け取った。 「ごめん…、ありがとう」 制服を肩に羽織りながら、はにかんで告げた暁人の言葉に、御神薙は僅かに首を傾げてみせる。 「……それは俺の科白だ」 小さく呟き、御神薙は踵を返した。 「御神薙?」 「結界を見てくる。何処かに綻びがある」 背中で返し、御神薙は結界を編み上げている石へと意識を集中した。案の定、野犬の群が現れたと同じ方角の石に異常を感じる。 「…やはり、血か」 その場に行ってみると、土に染みた血痕が幾つか見付かった。土に埋められた石の丁度真上で、弱肉強食の掟による獣同士の争いがあったらしい。かなり惨い死に方をしたのだろう。 石を掘り返して新たに清め直し、再び場所を変えて埋めながら、御神薙は思った。もしかすると、石に編まれたこの結界が、暁人の持つ未覚醒な力の部分に作用したのかもしれない、と。 危険を顧みず修羅場に飛び込んできた暁人。恐らく誰であろうと、彼はそうするのだろう。公園で子供を助けようとした時のように。 それを困った奴だと思う以上に、無性に嬉しく思う自分が確かに存在していることに、御神薙は不思議な感慨を覚えていた。 こんな気持ちは久しぶりだ。暁人と居ると、懐かしい「感情」というものが、泉のように自然と湧き出してくる。 再び大木の根もとに戻り、御神薙も暁人の隣に腰を下ろした。此処に居る限り、そう寒くはない筈だが、暁人は二人の間の隙間を埋めようとするかのように、躰をぴたりと寄せてきた。それから心配そうな顔つきで御神薙を覗き込む。 「傷、大丈夫だった…?」 「ああ。平気だ」 心の底からの気遣いを声音から聞き取り、御神薙は頷いた。 「良かった…」 安堵の溜め息。 「御神薙が無事で本当に良かった…」 「俺は心臓が止まるかというほど驚いた。今度のことは礼を言うが、無茶なことはするな。俺なら大丈夫だ」 御神薙の言葉に暁人が悄然と俯く。 「ごめん…。心配させたよね。……でも御神薙を守りたくて…」 「……俺を…?」 思わず漏れた御神薙の呟きを、暁人は別の意味に取って真っ赤になった。 「そ、そんなこと考えるのはおこがましいと思うけれど、でも…! 御神薙が誰かと戦うのを見るのは嫌だから…!」 「……お前…」 暁人はその長い睫を打ち震わせ、苦しげに伏せた。 「……僕、勝手なこと言ってるね。助けて貰ってばかりいるくせに。その怪我だって僕の所為なのに…」 膝を抱えて丸くなる。その拍子に、華奢な肩先から上着がずり落ちた。 「俺のことは心配せずとも大丈夫だ。そう簡単には死ねない」 制服を暁人の肩に前方から掛け直し、袖口を首の後ろで交差させて落ちないようにしてやりながら、御神薙が言う。 暁人は切ない眼差しを、瞼の内側に沈めた。 ………死ねないという言葉が、とても重かった。 それが良いことなのか悪いことなのか、暁人には本当のところは分からない。 不老不死を望む人が大勢いるのは知っている。けれど、人生は楽しいことばかりではない。辛いことや悲しいこと、やるせない怒り、そんなものも確実に、そして無数に鏤められている。そういったものも全て背負っていかねばならないのだ。永久の命なら、永久に背負わねばならないのだ。 御神薙は大切な人たちを全て失った。大切な人たちに取り残されて、それでも生きていかねばならない心情は、暁人には想像しか出来ない。けれど、自分だけが時の流れの外に弾き出されて生きていくことは、そんなに喜ばしいものだだとは思えなかった。 むしろ、とても―――――― 暁人は無言で御神薙にされるがままになりながら、彼の相変わらず表情の乏しい顔を見上げた。 ―――――― ……とても悲しいもののように思う。 新しいものに出会う歓びと取り残される哀しみとでは、果たして何方が大きいのだろうか。 せめて、人の歴史に関わること無く生きるという契約が無ければ良かったのに。そうすればきっと、彼を愛してくれる人間は数多に存在した筈だ。…例えば、この自分のように。 暁人は一度だけキュッと唇を噛み締め、それから御神薙を凝っと見上げた。 「………うん。でも御神薙が痛い思いをするのは嫌だから」 「俺は野犬ごときに負けたりしない」 暁人は静かに首を振った。 「……誰かを……何かを傷付けると、同じだけ自分も傷付くから。御神薙がこれ以上傷付くのは嫌だから」 真昼のように冷たく澄んだ綺麗な銀の双眸が、虚を衝かれて一瞬見開かれ、そして静かに伏せられる。 「………そうだったな。お前は先刻もそう言った…。俺を、痛いと」 生きている限り痛い思いはする。けれど、痛みを知らないのは生きていないのと同じなのだと、暁人はそう教えてくれた。 「うん。痛い思いはして欲しくない。けれどそれは感情を抑えることじゃないんだ」 抱えた膝頭にこめかみを落とし、暁人は強い力を秘めた視線で御神薙を斜から見上げた。 「……御神薙には笑っていて欲しい。僕にも力があれば良いのに…。君を守れる力が……」 「久神暁人……」 「そうしたら御神薙と助け合って…そう、ずっと二人で一緒に生きていけたら…良いな……」 「……二人で…」 「二人で」 強く頷き、暁人は恥ずかしそうに笑った。 御神薙は暫く無言だった。 首尾よく始祖を倒せたとしても、恐らく自分が暁人の側に、…この世界に留まり続けることは困難だろう。 だが、悲しくはなかった。――――嬉しかった。 だから彼は笑った。 「そうだな。そうなると良い……」 御神薙の答えに大きく頷いて、暁人も嬉しそうに笑った。その笑みを形作る唇を、不意に欠伸が衝いて出る。興奮が冷めて安堵した途端に、再び睡魔の波が打ち寄せてきたらしい。 小さくなって膝小僧に顎を乗せる、そんな暁人の姿に、御神薙は深い眼差しを注いだ。 「二人で」という言葉は、「彼」の口からは聞けなかった言葉だった。「彼」は誰にでも優しく、いつも穏やかで、けれど孤高に生きていた。御神薙は誰よりも「彼」の側近くに居たけれど、「彼」は余りにも高く遠い処に在る人だった。常にそう在り続けた人だった。だからこそ、御神薙は「彼」に尊敬と親愛に満ちた憧憬を抱いたのだ。 ――――――だが、暁人は。 「………長く生きてみるものだな」 「え?」 眠たそうな目で暁人が見上げてくる。 そんな無邪気で無防備な仕種に、自然と御神薙の口許が綻ぶ。何処か変な処に無駄に溜まっていた力がスッと抜けていくような、そんな気がした。 「お前に会えた」 一体、幾年月待っていたか知れない。 否や、待ってなどいなかった。何も彼も諦めていたから。期待という感情もとうに捨てた。持っていても何の役にも立たないどころか、下手に傾倒すれば命取りにさえなる。そう思っていたから。 けれど、「彼」は再び自分の前に現れた。「彼」の魂を持つ、けれど「彼」では決してない、全く別の存在として。 これがあの堕天使の企みでも、構うことなど何もない。今再び「彼」の魂に見えることが出来たのだから。暁人という存在に巡り会うことが出来たのだから。 「御神薙……」 驚きに目を瞠る暁人の優しげな貌を、御神薙は万感の想いを以って眺めた。 安らかな、その微笑。 至近距離から銀の瞳に、まるで柔らかく包み込むように見つめられて、暁人はまたパッと頬を染めた。 「…えと、あ……、月が」 恥ずかしまぎれに、暁人は遥かな天空を指差した。 木々の合間から漏れ射してくる白銀の光。貝釦のような、その姿。 「月…?」 「月が、綺麗だね…」 暁人が耳許で囁くように告げると、御神薙も銀輪輝く夜空へと目を向ける。 暁人は御神薙の肩にそっと頭を乗せてみた。御神薙は何も言わない。 彼の体温、その血の流れを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じる。 虫の声。夜行性の小動物が蠢く音。梢を渡る微風のざわめき。何処からか聞こえ来る、小さな水音……。 そんなものが、遠い昔の懐かしい記憶を呼び覚ますような気がして、暁人は凝っとそれらに耳を傾けた。 不意に、感情の篭らない静かな声が、直ぐ側から降ってくる。 「……俺は昔、未だ「彼」が居た頃、月が嫌いだった。あの禍々しい堕天使の、使者のようだと思った。けれど今は違う。あれだけが変わらず俺の側に居る。満ちて、欠けて、また満ちて、少しずつ小さくなりながら、それでも彼奴だけが俺の側に居た」 暁人は顔を上げ、御神薙を見た。 彼は変わらず、ただ月を眺めている。その横顔には声同様、何の感情も浮かんではいない。淡々と、ただ其処に在る事実を述べているといった風情の御神薙を、けれど暁人はそのようには捉えなかった。 悲しい、と思った。 この人は何て寂しくて哀しいんだろうと、心の底から思った。 この人の孤独が癒せるものなら何だってする。もしもそれが、命と引き換えにしか手に入れられないものであったなら、きっと自分は喜んで命を投げ出すだろうと、暁人は思った。 「……泣いて良いんだよ」 そっと、その頑なな横顔に手を伸ばし、暁人は綺麗な銀色の髪を撫でた。 「……泣く?」 暁人の指に髪を梳かれながら、僅か心地好さげに目を細めた御神薙が不思議そうに呟く。 「……泣いて良いんだよ……」 声が震える。恥ずかしい。みっともない。泣いて良いのは御神薙だ。自分じゃない。 「……泣いているのはお前だ」 パタリと軽い音を立て、涙が膝を濡らす。 「だって、だって…っ、御神薙……」 僅かに揶揄を含んだ優しい声で返されて、堪らず嗚咽が漏れた。 今また御神薙の孤独な魂に触れ、暁人は今度こそ涙を堪えることが出来なかった。御神薙の肩先に顔を埋め、その躰に腕を回してギュッと固く抱き締める。 自分という人間をもっと強く感じて欲しかった。一人じゃないのだと知って欲しかった。こんなにも側に居たいと思っている人間が、確かにこの世界に存在するのだと、御神薙に分かって欲しかった。 「久神暁人…」 華奢な肩を激しく上下させ、必死に縋りついてくる暖かく無垢な人を、御神薙は優しく優しく抱き寄せた。 「……泣きたくなど、ない」 泣く必要などない。 小刻みに震え続ける暁人の躰を、その熱さを、全身で受け止めながら御神薙は凝っと天上の月を見据えた。 月光が優しいと感じたのは初めてじゃない。 けれど、こんなにも穏やかな気持ちで月光の優しさを受け止められたのは、初めてのような気がした。 自分の奥底で波打っていた何か澱のようなものが、ゆっくりと浄化されて凪いでいく様を、ただただ静かに見送る。 やがて、暁人の嗚咽が途切れたと思った頃、急速に左肩が重くなった。 「………眠ったのか」 口中で呟き、御神薙は微笑した。 「彼」とは違う。未だ幼くとても頼りない少年。けれど強い。恐らく「彼」以上に暁人は強い。 この少年に逢う為に生きていたのだと、今強く思う。 彼に出逢う故の孤独だったと思えば、ただただ漂流に費やした時間も、全てが誇らしく愛しいもののような気がした。 己の魂を懸ける相手は、「彼」であり、そして「彼」ではなかったのだ。 泣き疲れて眠る暁人の顔に、くっきりと残る涙の跡。月光に照らされて淡く浮かび上がるそれに、そっと指で触れてみる。 柔らかく、暖かい頬。ほんの少し濡れた指先。――――月の雫のような、涙。 それを、グッと掌に握り込む。 流浪の銀狼の瞳に今、孤独はない。 「……必ずお前を守ってみせる」 失敗は繰り返さない。もう二度と、目の前で死を選ばせたりしない。 「この世界の為などではない。ただ、お前の為だけに…」 俺は在るのだと小さく呟き、暁人の涙を握ったその拳に、御神薙は恭しく口づけた。 <fin> |
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こーにゃ様より ---
【御神薙 x 暁人】
あとがき …ということで、第二弾は御神薙X暁人です。めちゃくちゃお約束な展開でちょっと恥ずかしかった。ベタ過ぎる……。 |
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当同盟の会員様のこーにゃ様から
ステキ小説のご投稿です!!
っぎゃー!!御神x暁!!!
ピュアですわよ!純愛ですわよ!!
結界の中でのつかの間の安らぎのシーンは
ゲーム中でもとても好きなシーンなので、
今回こーなさんに小説として読ませていただけて嬉しいですッvv
互いを思いやる御神薙と暁人の気持ちがしっとりと伝わってくる作品でした。
こーにゃさん、今回も素敵な作品をありがとうございました(*^^*)
01/11/20 commented by.未樹
今回のタイトル部分に使用した月の画像は
こちらからいただきました。
ハ メ ハ ズ シ @ Seraphim Spiral ........